プロ野球カードを語る


読売ジャイアンツ

 1

1980年(
R・ホワイト西本聖)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆53 R・ホワイト
巨人(80〜82)
362試合 348安打 54本 172打点 34盗塁 打率.283
▽まじめな外国人であった。スイッチヒッターで、長距離ヒッターではないが、コンスタントにヒットを打っていた印象がある。原、トマソンらとクリーンナップを打ち、81年の巨人優勝時に大活躍した。
史上初めてヤンキースと巨人の4番を務めた。

左から
80年 bR6(ファーストカード)
81年 bQ93
81年 bR01

◆54 西本聖
巨人(75外〜88)
中日(89〜92)−オリックス(93)−巨人(94)
504試合 165勝 128敗 17S 防御率3.20
最多勝1回、最高勝率1回 (当時連盟表彰なし)、沢村賞1回、ゴールデングラブ賞8回、日本シリーズMVP1回、日本シリーズ敢闘賞1回、月間MVP2回、最優秀JCB・MEP賞1回、カムバック賞、オールスターゲーム出場8回、通算100勝(史上90人目)、1000奪三振(史上78人目)、通算150勝(史上38人目)、2500投球回数(史上37人目)、500試合登板(史上67人目)
▽ドラフト外でジャイアンツに入団。「雑草魂」って今でいうと上原だが、昔は、この西本だった。よく江川と比較されていたな。ライバルでもあった。主に、先発で活躍。順調に200勝ペースかなって思っていたけど、皆川投手コーチとの確執があって、登板機会を与えられなくなってしまった(はた山ハッチのまんがで、そのことがよく取り上げられていたっけな。和解ゴルフとかいって)。結局、修復できずに89年に中日・中尾とのトレードになった。中日移籍の89年には、自身最高の20勝をあげる(巨人に移った中尾もすごかった。こちらも、山倉を追い出し正捕手の座へ)。江川が、余力を残して(いるように見えた)引退したのに対し、この西本はボロボロになるまでやった。中日の後、土井正三監督率いるオリックスへ、そして、長嶋ジャイアンツ復活の時には、再び、ジャイアンツのユニフォーム着ることとなった。
 復帰したジャイアンツでは、1軍登板機会がないまま引退することになってしまし、私としては残念だった。この年は、優勝の行方がもつれて、順調にジャイアンツが優勝していれば引退試合があったかも知れない。
 シーズン終了後、多摩川で引退試合を定岡(元 巨人)が、企画して行ったというのは有名な話。長嶋が代打で出場するというサプライズもあった。復帰したときの巨人のカードはないのかなぁ…。


左から
80年 bV8(ファーストカード)
80年 bQ37
81年 bP06

1981年(
山倉和博松原誠トマソン江川卓)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆55 山倉和博
巨人(78@〜90)

1262試合 832安打 113本 426打点 27盗塁 打率.231
MVP1回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞3回、オールスターゲームMVP1回、1000試合出場(史上269人目)、100本塁打(史上151人目)、オールスターゲーム出場8回
▽私が野球を覚えた頃から、彼は、ジャイアンツの8番・キャッチャーだった。78年ドラフト1位でジャイアンツに入団。いきなり、阪神との開幕戦でスタメンマスク。新人8人目の開幕戦本塁打を放った。以後、87年まで、レギュラーとして活躍。ベストナインに3度、それから、87年にはMVPに選ばれている。
 変なときに打ったり、活躍するもんだから、「意外性の男」って言われていたっけ。88年からは、移籍してきた有田、中尾、それから若手で村田らが成長したため、出場機会が減り、90年に引退した。


左から
81年 bR(ファーストカード)
81年 bP69
81年 bQ79

◆56 松原誠
大洋(62〜80)−
巨人(81)
2190試合 2095安打 331本 1180打点 82盗塁 打率.276
最多安打2回(当時連盟表彰なし)、オールスターゲームMVP1回、オールスターゲーム出場11回、4打数連続本塁打、300本塁打、1000打点、2000試合出場、2000安打、通算330本塁打(横浜球団記録)、 通算1172打点(横浜球団記録)
▽巨人時代の記憶はある。当時は、こんなに実績のあるバッターとは知らず、「なんで試合にあまり出ないのに1軍にいるんだろう」って思っていた。(失礼)


左から
81年 bU(巨人移籍後最初のカード)
81年 bQ83

◆57 トマソン
巨人(81〜82)

167試合 119安打 20本塁打 55打点 5盗塁 打率.249
▽81年の優勝時には本塁打20本以上放ち、活躍したものの三振も多かったバッター。打順は6番か7番だったかな。


左から
81年 bW(ファーストカード)
81年 bQ67


◆58 江川卓
阪神(79@)−
巨人(79〜87)
266試合 135勝 72敗 3S 防御率3.02
最多勝2回、最優秀防御率1回、最高勝率2回(当時連盟表彰なし)、最多奪三振3回(当時連盟表彰なし)、MVP1回、最優秀投手2回、ベストナイン2回、月間MVP2回、日本シリーズ優秀選手賞1回、オールスターゲームMVP1回、後楽園MVP賞1回、1000奪三振(史上69人目)、通算100勝(史上88人目)、1500投球回数、 シーズン10無四死球試合(セ・リーグ記録)、オールスターゲーム出場8回

▽「怪物」の入団は79年。作新学院卒業時には阪急に、法政大学卒業時にはクラウンに指名されるも、入団拒否。「空白の一日」でジャイアンツに入団。でも、世間を騒がす大騒動に巻き込まれ、いったん阪神タイガースに入団。そして、トレードでジャイアンツ入りとなった(小林繁は阪神へ。翌年だけ見れば、小林の勝ちだが)。1年目こそ9勝だが、これは、出場できない期間があったからだと思う。初登板は阪神戦。スタントン、ラインバックといった外国人勢に本塁打を浴びた。2年目から引退する年まで連続二ケタ勝利。通算135勝 MVP1回、最多勝2回 最優秀防御率1回とタイトルを獲得。
 よく、マスコミには、手抜きして調子よく投げるって言われていたけど、脅威の三振奪取率、それから、高い勝率、完投率等を考えれば、当然であろう。
 球宴では、8打者連続で三振を獲った。9人目は近鉄の大石で、なんか、カーブを放って軽く合わされてセカンドゴロだった(この頃の球宴は見ごたえがある対決だったけど、今の球宴は、権威が落ちたように思う)。


左から
81年 bR61(ファーストカード)

81年 bR83
81年 bR91

1982年(
篠塚利男原辰徳平田薫)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆59 篠塚利男
巨人(76@〜94)
1651試合 1696安打 92本 628打点 55盗塁 打率.304
首位打者2回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回、日本シリーズ敢闘賞1回、後楽園MVP賞1回、 1000本安打(史上147人目)、1000試合出場(史上272人目)、1500本安打(史上61人目)、1500試合出場(史上103人目)

▽76年ドラフト1位でジャイアンツ入団。華麗な守備、芸術的なバッティングは、長い間、野球ファンを魅了した。長嶋監督のときの入団なので、地獄の伊東キャンプなどで鍛えられたのだろう。レギュラーとして活躍し始めたのは、80年頃から。81年の原入団の年も、4月は控えだったが、中畑のケガで原がサードへ。空いたセカンドに入り、その後は首位打者争いにも加わって、大活躍。藤田平(阪神)に1厘差で敗れたが、以後、毎年、コンスタントに3割を打った。首位打者2回。晩年は、少し残念だった。試合中、腰痛が再発し、セカンド守備からベンチへ引き上げてきてグラブを投げつけ悔しがるシーンを、私は、鮮明に覚えている。
 06年はコーチに復帰。1軍内野
守備走塁コーチ。


左から
82年 bQ6(ファーストカード)
82年 bP09
82年 bU47

◆60 原辰徳
巨人(81@〜95)
1697試合 1675安打 382本 1093打点 82盗塁 打率.279
打点王1回、最多勝利打点2回、 新人王、MVP1回、 ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞2回、月間MVP3回、JA全農Go・Go賞1回、後楽園MVP賞2回、東京ドームMVP特別賞1回、セ・リーグ最優秀監督賞5回、正力松太郎賞2回、世界最優秀監督1回 (国際野球連盟(IBAF)により選定。プロ野球界からは日米通じて初選出。)、1500本安打(史上66人目)、350本塁打(史上15人目)、1000打点(史上22人目)、1500試合出場(史上106人目)、オールスターゲーム出場11回、監督通算700勝(史上18人目)

▽ジャイアンツの現監督。「若大将」といえば、彼のことだった。私が野球に興味を持ったのは、私の家の隣に引っ越してきた友人が、非常に野球が好きで、その影響を受けたからだ。その年は、ジャイアンツに原が入団した年。最初はセカンドだったが、中畑の故障でチャンスが巡ってきて、サード原が誕生した。よく、「ジャイアンツの原はチャンスに弱くてダメだ」って言われていたけれど、私からしてみればよく打った。って言うかよく打たれた。伊東昭光から本塁打を打ってバットを放り投げたシーンは敵ながら『すごい』と思った。それから、津田(元 広島)との対決では、直球勝負の末、手首を骨折してしまうほどの大怪我をしてしまった。もう、書きたいことがたくさんすぎて…。巨人ファンではなくても応援したくなる選手だったな。
 引退試合は感動した。


左から
82年 bT1(ファーストカード)
82年 bQ07
82年 bQ87

◆61 平田薫
巨人(76外〜84)
−大洋(85〜87)−ヤクルト(88)
452試合 164安打 22本 112打点 4盗塁 打率.239
日本シリーズ優秀選手賞1回

▽日本シリーズで大活躍した記憶がある。大洋時代の記憶はあるが、88年のヤクルト時の記憶がいまいち無くって…。

左から
82年 bQ61(ファーストカード)
82年 bS30

1983年 なし 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1984年(
スミス槙原寛己駒田徳広吉村禎章)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆62 スミス
巨人(83〜84)
186試合 134安打 45本 122打点 3盗塁 打率.271
ゴールドグラブ賞1回
▽大リーグ時代の実績はかなりのもの。しかし、日本では期待外れの感があった。それでも28本塁打は立派。原が4番、5番を多く打っていたかな。

左から
84年 bW0(ファーストカード)
84年 bS97

◆63 槙原寛己
巨人(82@〜01)
463試合 159勝 128敗 56S 3.19
最多奪三振(当時連盟表彰なし)1回、新人王、日本シリーズMVP1回、日本シリーズ優秀選手賞1回、月間MVP3回、初登板・初先発・初完投・初完封・初勝利、2000投球回数(史上72人目)、2000奪三振(史上15人目)、通算150勝(史上42人目) 、完全試合(史上15人目)、オールスターゲーム出場6回 (すべて監督推薦出場)

▽この選手も、斎藤同様、200勝手前で失速してしまった。後半は、リリーフにも起用されるようになったからしょうがないのかな。82年ドラフト1位でジャイアンツに入団。2年目の83年に12勝を記録し、新人王。以後、引退するまで、斎藤と共に、先発ローテーションの一員として活躍した。FA宣言したときには、私も驚いたが、長嶋監督に説得されて残留。ヤクルトファンの私も安心した。
 今思えば、気の毒だったのが、90年の西武との日本シリーズ。大方の先発予想は斎藤であったが、槙原が第1戦の先発を任された。いきなり、デストラーデに3ランを浴び、シリーズの流れを西武に与えてしまい、4連敗。
 もう一つ、阪神伝説の3者連続本塁打を…。
 現在は、TBSの解説者。ホンジャマカの恵
と仲良くやっている。

 テレビの企画で「いがぐり投げ大会」に出場(2012年10月)したが、意外にも残念な結果に(51人中13位)。

左から
84年 bX3(ファーストカード)
84年 bQ16
84年 bT13


◆64 駒田徳広
巨人(81A〜93)
−横浜(94〜00)
2063試合 2006安打 195本塁打 953打点 35盗塁 打率.289
ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞10回(一塁手としては歴代最多獲得)、日本シリーズMVP1回、日本シリーズ優秀選手賞1回、オールスターゲームMVP1回、月間MVP1回、最優秀JCB・MEP賞1回、優秀JCB・MEP賞2回、JA全農Go・Go賞1回、150本塁打(史上102人目)、2000試合出場(史上31人目)、2000安打(史上29人目)25試合連続安打、シーズン29併殺打(セ・リーグ記録)、オールスターゲーム出場6回、プロ野球通算55000号本塁打、プロ野球通算70000号本塁打
▽史上29人目の2000本安打を達成して、00年に引退。81年ドラフト2位でジャイアンツ入団。「満塁男」として、活躍。ジャイアンツ時代の89年には日本シリーズMVPに輝いている。00年は、自分の打席で代打を出され、無断帰宅してしまい、1ヶ月の2軍生活を強いられた。結果、名球界入りが遅くなった。
 ファーストカードは、まだ背番号が50番のときのもの。サインは楽天2軍コーチ時代にもらった。
 05年は楽天コーチ。06年はテレビ東京のスポーツ番組を伊
集院光と楽しそうにやっている。

 FLASH2012年3月20日号の本人のインタビューによると、本名の読みは「とくひろ」だが、入団時に「のりひろ」と呼称され、そのままうやむやになって本人も使い分けているという。

左から
84年 bP04(ファーストカード)
84年 bT14

◆65 吉村禎章
巨人(82B〜98)
1349試合 964安打 149本塁打 打点535 40盗塁 打率.296
ベストナイン2回、月間MVP2回、JA全農Go・Go賞1回、オールスターゲームMVP1回、カムバック賞、東京ドームMVP2回、オールスターゲーム出場:4回、100本塁打(史上153人目)、1000試合出場(史上312人目)

▽83年PL学園からドラフト3位でジャイアンツ入団。私がジャイアンツの選手で応援してしまう選手といえば、ちょっと前は小久保、そして、もう引退してしまったが、つい最近まではこの吉村だった。彼は、85年頃からレギュラーで出場するようになり、外野のポジションを獲得。「原の次の4番は吉村だ」とまで言われた選手だった。しかし、札幌円山球場で、選手生命に影響が出てしまうほどの大怪我をしてしまった。
 私が初めて東京ドームに行ったのは、高校1年生のとき。当時、クラスメイトだったKさんが、この日に行こうって決めた日が、たまたま(狙っていたのは事実だけど)吉村選手の復活の日だったのだ。そんなことは、私のほうはあまり考えていなかったと記憶しているのであるが、対戦相手がヤクルトということで私を誘ったのだろう。試合は川崎の好投、秦のホームラン。内藤のリリーフでヤクルトが勝利した。しかし、その日のメインは「代打 吉村」だった。球場全体が何とも言いようのない盛り上がりを見せ、レフトスタンドからも声援を送っている人がいた。 90年には、優勝決定の日にサヨナラ本塁打(打たれたのは川崎だったんだよな)。悔しかったけど、吉村だからしょうがないかって考えるようにした。その後は、個人的な意見ではあるけれども、パリーグへ行ってDHで出場すればもっと活躍し、選手寿命も延びたのではないかなって思った。でも、最後まで、彼はジャイアンツの一員であった。


左から
84年 bP43(ファーストカード)
84年 bT77

1985年(クロマティ
水野雄仁)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆66 クロマティ
巨人(84〜90)

779試合 951安打 171本 558打点 26盗塁 打率.321
首位打者1回、最高出塁率1回、最多勝利打点2回、最多安打(当時連盟表彰なし)1回 (1989年)、 MVP1回、ベストナイン3回、オールスターゲームMVP1回、月間MVP1回、東京ドームMVP2回 150本塁打、オールスターゲーム出場3回
▽ジャイアンツ史上最強の外国人って言われているようだ。
 ヤクルトファンとしては忘れられない試合がある。86年のシーズン・ヤクルト戦で、高野光投手から頭部に死球を受けて退場、そのまま病院へ。翌日は病院から球場に直行し、代打で出場。尾花から満塁本塁打を放っている。中日の宮下に殴りかかったこともあったな。
 入団以来、本塁打を量産、しかし、89年には、長打を捨ててチームバッティングに専念。打率.378を記録し、首位打者、最高出塁率賞、シーズンMVPも獲得した。88年にはケガで長期離脱。呂の台頭もあり、退団を心配したが、翌年は再び活躍。「お前が打たなきゃー 明日は雨ー、クロマティー」っていやな
ほどたくさん聞いた歌だ。


左から
85年 bQ5(ファーストカード)
85年 bV0
85年 bQ62

◆67 水野雄仁
巨人(84@〜96)
265試合 39勝 29敗 17S 防御率3.10
オールスターゲーム出場1回
▽高校時代の活躍は凄かった。池田高校のエース“土佐の金太郎”とか呼ばれていたっけ。打撃も目を見張るものがあった。巨人では先発や中継ぎで活躍。二ケタ勝った年もあったな。

85年 bU0(ファーストカード)

1986年(斎藤雅樹
鹿取義隆宮本和知岡崎郁)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆68 斎藤雅樹
巨人(83@〜01)
426試合 180勝 96敗 11S 防御率2.77
最多勝5回、最優秀防御率3回、最多奪三振1回、最高勝率(当時連盟表彰なし)3回、MVP1回、沢村賞3回、ベストナイン5回、最優秀投手5回 、ゴールデングラブ賞4回、月間MVP5回、最優秀バッテリー賞1回、IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞5回、最優秀JCB・MEP賞2回、優秀JCB・MEP賞1回、JA全農Go・Go賞1回、東京ドームMVP1回、オールスターゲーム出場6回、150勝(※史上40人目)、 2000投球回数(※史上77人目)、1500奪三振(※史上41人目)、3年連続開幕戦完封(日本記録)、 11試合連続完投勝利(日本記録)、沢村賞受賞回数3回(日本記録)、最多勝5回(日本記録)、年間最多完封回数7回(日本記録)、通算勝率歴代3位(投球回2000回以上)
▽83年ドラフト1位でジャイアンツ入団。よく投げ、よく勝った。強いて言わせてもらうと、なぜ200勝を目指さなかったのか? ボロボロになるまでやって200勝して欲しかったな。89年、90年と2年連続20勝投手。MVP1回、最多勝5回、最優秀防御率3回。藤田監督のときにエースになり、出れば完投、完封。ヤクルトも相当やられた。秦だけにはよく打たれていたが。原監督のときの引退セレモニーは感動もんだった。
 1989年(この年斎藤は20勝)8月12日の対中日戦で、3点リードした9回までノーヒットピッチングだったが、一死後音がヒット(ここで記録は消滅)、さらに続く川又が四球、続く仁村徹がタイムリー、続く落合に3ランHRを打たれ敗戦投手となるという悲運。

左から
86年 bT1(ファーストカード)
86年 bP01
86年 bP72

◆69 鹿取義隆
巨人(79外〜89)−西武(90〜97)
755試合 91勝 46敗 131S 防御率2.76

最優秀救援投手1回、月間MVP1回、ファイアマン賞1回、 オールスターゲーム出場3回
▽90年の日本シリーズで見せ場はあった。第2戦9回裏の巨人の攻撃、1死1・2塁バッタークロマティのときに、セカンドにけん制球を投げ、上田をアウトに。
 79年ドラフト外でジャイアンツに入団。ジャイアンツでも、その後、移籍した西武でも、主に、リリーフエースとして活躍。755試合登板中、739試合がリリーフだった。珍記録も多く、85年には1球セーブ、90年には10連続セーブのパリーグ記録、93年には、1イニング3球チェンジ、94年には、初回にピンチで登板し、以後9回まで投げ抜き、27アウトをとって勝利した。


左から
86年 bT7(ファーストカード)
86年 bP62

◆70 宮本和知
巨人(85B〜94)
287試合 66勝 62敗 4S 3.60
1000投球回数(史上263人目)、
3者連続3球三振(史上12人目(セ・リーグ7人目))

▽現在は、ズームインサタデイで活躍。私が気になっているのは、93年だったと思うが、ヤクルト古田に対して明らかに故意に死球をぶつけたこと。確か、3球目あたりにぶつけたのだが、1球目も2球目も狙っていた様子があった。監督の指示だったんだろうね。


左から
86年 bU1(ファーストカード)
86年 bP41

◆71 岡崎郁
巨人(80B〜96)
1156試合 906安打 63本 384打点 23盗塁 打率.260
ゴールデングラブ賞1回、日本シリーズ敢闘賞1回、日本シリーズ優秀選手賞1回、1000試合出場(史上320人目)、オールスターゲーム出場4回

▽80年ドラフト3位でジャイアンツに入団。長い間レギュラーで活躍していたが、他チームから次々と4番打者がジャイアンツに移籍してきたため、そのあおりをもろに受けて引退を早めた(と、私は勝手に思っている。だって、広沢、ハウエル、落合、江藤、石井、清原ってどうなんだろう?)。チャンスに強いといわれていたが、それはファミコンでは反映されないことが多く、6番岡崎、7番駒田という初期設定の打順をいつも入れ替えて友だちが使っていたっけ(ファミスタの話です)。東京ドーム近くで焼肉店を営みながら、コーチ業にも励む。06年はシーズン途中でありながら、2軍コーチから1軍コーチへと昇格(何か、スコアラー登録ということらしいが…)。私の持っているカードは顔がアップのものばかりで…。


左から
86年 bW6(ファーストカード)
86年 bP68

1987年(
桑田真澄)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆72 桑田真澄
巨人(86@〜06)
442試合 173勝 141敗 14S 防御率3.55
478試合 192安打 7本 79打点 0盗塁 打率.248
最優秀防御率2回、最多奪三振1回、最高勝率(当時連盟表彰なし)1回、最優秀選手1回、沢村賞1回、最優秀投手1回、ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞8回、日本シリーズ優秀選手賞1回、最優秀バッテリー賞1回、月間MVP4回、優秀JCB・MEP賞1回、オールスターゲーム出場8回 、危険球退場3回(日本記録)、1500奪三振(史上42人目)、150勝(史上44人目)、2500投球回(史上42人目)

▽86年ドラフト1位でジャイアンツに入団。2年目からはジャイアンツのエースとして長年活躍。私は、王監督時代に、よく、「桑田、槙原、ガリクソン」って口走っていた。近年は、登板機会も減り、ついに、06年シーズン終了時にジャイアンツを去ることになったらしい。入団時に少し、ゴタゴタがあった。86年・巨人は、当初、「清原を1位指名で獲得する」と思わせていたが、いざ、ドラフトが始まってみると、清原は獲らずにこの桑田を獲った。記者会見では、「指名されて驚いた」って言っていたけど、合同記者会見で、「目標は?」って聞かれて、「200勝です」って答えたのには、こっちが驚いた。
 実績は十分、どっか、大リーグで彼を獲ってくれないかなぁ。活躍が見たい。そして、200勝へ。
 08年シーズン開幕直後に、引退が発表された。今後は
指導者として活躍するだろう。
 非喫煙者で嫌煙家。非喫煙者が受動喫煙させられることに立腹し、スタッフに働きかけ、1台だった移動用バスは、2台になり、1台は禁煙車に変更、また「ロッカールームは禁煙、食堂は喫煙」と分煙化を達成。春先のキャンプでは禁煙ルームを設置できないので全面禁煙化を達成させた。


左から
87年 bT2(ファーストカード)
87年 bV7
87年 bP50

1988年(ガリクソン
簑田浩二)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆73 ガリクソン
巨人(88〜89)

41試合 21勝14敗0S 防御率3.29
月間MVP1回、東京ドームMVP1回
▽愛称「ガリー」。ジャイアンツで活躍したが、退団して大リーグ復帰して、もっと活躍した。91年は大リーグ最多勝を獲得。日本から大リーグに戻った外国人では、この頃、彼と、セシル・フィルダーが有名だったが、今では、そう珍しくはなくなっている(広島にいたソリアーノなんか、日本にいたときには控えの野手だったのに)。
 生まれた子どもの名前に「クワタ」ってつけて、話題になったことも。
 88・89年の2年間ジャイアンツに在籍して41試合に登板
21勝14敗。


左から
88年 bP00(ファーストカード)
88年 bP28
88年 bQ31

◆74 簑田浩二
阪急(76A〜87)−巨人(88〜90)

1420試合 1286安打 204本 678打点 250盗塁 打率.279
ジュニアオールスターゲームMVP:1回、ベストナイン3回、ダイヤモンドグラブ賞8回、オールスターゲームMVP2回、オールスターゲーム出場4回、オールスターゲーム・本盗 (史上初)、1000試合出場(史上253人目)、1000本安打、200本塁打(史上55人目)
▽76年に阪急入団。入団3年目にレギュラーを獲得。以後、攻走守三拍子揃った選手として、福本、加藤秀、山田久志らと阪急黄金時代を築いた。83年には、3割、30本、30盗塁を記録。また、強肩でも有名で、8年連続ゴールデングラブ賞を獲得している。ベストナイン3度。88年にジャイアンツに移籍してきたときは驚いた。こんなにいいバッターが移籍してきたんだから1番か3番で使うんだろうなって思っていたら、それほど、出場機会が多くなく、また、最後の年には、選手でありながら、ファーストコーチャーズボックスに立ってコーチをしていたこともあったぞ。


左から
88年 bQ36(巨人移籍後最初のカード)
88年 bQ84

1989年(勝呂博憲
呂明賜)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆75 勝呂博憲
巨人(88D〜91)−オリックス(92〜96)−近鉄(97〜99)
691試合 346安打 12本 107打点 34盗塁 打率.242

▽88年巨人入団。内野ならどこでもこなすユーティリティープレイヤーだった。川相よりも当時は期待されていたし、出場機会も多かったのに。その後、オリックスにトレードされ、最後は近鉄で引退。そのままコーチになった。
 ダイエーのコーチには2003年に就任。内野守備コーチ。その後、2軍内野守備・走塁コーチ。
 06年でソフトバンクを退団。07年は、北信越リーグの長野コーチ。


左から
89年 bQ2(ファーストカード)
89年 bP43

◆76 呂明賜
巨人(88外〜91)

113試合 89安打 18本 49打点 6盗塁 打率.260
ジュニア日本選手権MVP1回、初打席初本塁打(史上24人目)、オールスターゲーム出場1回

▽デビューは衝撃的だった。ヤクルト戦だったから、私はさらに驚いていたのだ。88年入団。クロマティのケガで1軍のチャンスをつかむと即スタメン。初打席でヤクルト・ギブソンから本塁打を放った。その後、相手投手陣からマークされたり、調子を落としたこともあって、本塁打ペースは下降線を辿ったが、シーズン16本を記録した。また、彼のために、オールスター戦に出られる外国人枠が1人増えたこともあった。しかし、残念ながら、翌年は、クロマティが復活し、元の2軍に戻ってしまい、みんなが忘れた頃に退団。
 その後は、台湾野球で選手・コーチとして活躍。私が06年に台湾を訪れたとき、彼の所属しているチームの試合を見ようと思ったが、日程が合わず、他の対戦カードとなってしまった(できれば、写真を撮ってサインももらおうと考えていたのだが、実現しなかった)。


左から
89年 bU9(ファーストカード)
89年 bP95


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